隠岐にあるのはエゾキケマンだった
※ 『隠岐の文化財』という地元誌(第29号)に掲載予定の原稿を転載しました。
ネット上に公開されている「青森県植物誌」の解説(細井幸兵衛氏による)を引用させていただきました。感謝申し上げます。
今までミヤマキケマン Corydalis pallida (Thunb.) Pers. var. tenuis Yatabe とされて来た種(ケシ科キケマン属)が,実はエゾキケマン Corydalis speciosa Maxim. であることが明らかになった。同定は福岡教育大の福原達人博士によるもので,疑問の余地は全くない。更に,隠岐産のものはトサカキケマン C. pterophora Ohwi とすべきであろう,という同氏の見解も併せて紹介したい。
エゾキケマンは北海道以外では青森・岩手両県の一部にしか自生しないし,トサカキケマンと見なせば日本では隠岐だけに分布することになる。まだ一般には知られていない衝撃的な事実である。
1. 何故ミヤマキケマンと間違えたのか
地元の研究家による過去の記録はすべてそうなっているし,専門の分類学者までミヤマキケマンとして報告している。「隠岐のは少し違う」と言われる種は時々あるのだが,本種に関してはそんな噂を聞いたことがない。今まで疑う人はいなかったということか?不可解な話だと思う。むろん筆者の場合も,エゾキケマンの可能性など一瞬たりとも考えなかった。ミヤマキケマンの母種であるフウロケマン C. pallida var. pallida との区別に,多少迷った程度である。
北海道にエゾキケマン,本州の近畿以東にミヤマキケマン,西日本(中国地方・四国・九州)にフウロケマン,の似たもの3種が分布しているとされる。そしてこの3者の区別は,大井「植物誌」の検索表では次のようになっている(以下ミヤマキケマンとフウロケマンの区別は無視する)。その後に続く主要図鑑や,最新の“Flora of Japan(日本植物誌)”にも同じことが書いてある。
・種子の表面に細凹点がある --------------------- エゾキケマン
・種子の表面に円錐状の突起がある -------------- ミヤマキケマン
再度自分でも調べてみたが(島後:大満寺山,島前:高崎山),凹点は全く感じられなかった。円錐状に尖る突起もなく,緩やかな凸レンズ状のふくらみがあるだけである。確かにこれでは,検索表に従って「エゾキケマンではない」という結論を出さざるを得ない。突起の高低に多少の変化はあるが,少なくとも「凹点」ではないので。この「凹点」という表現が混乱の元凶という気がする。他に,北海道産エゾキケマンの実物を知らないことも遠因となっているのであろう。分布が「北海道」や「沖縄」だけになっていると,筆者なぞは直ぐに検討の対象から外してしまう。
2. 「凹点」は図鑑のミスか
これについては結構悩んでいたので,細井幸兵衛氏(青森県)の詳細を窮めた解説(2009)に出会って感激した。「印刷工の誤植では?」という説である。
《・・・私は長年にわたって本当のエゾキケマンを探し続けてきた。その結果、過去の誤りをやっと解決出来た
・・・大井次三郎博士による種子表面の解説を見ても、本物のエゾキケマンに巡り合って認識するまではよく理解できなかった。そんな訳で私には思ったよりもエゾキケマンの理解には長い年月を費やした。
・・・青森県産の多くの種類を正確に理解するために北海道によく出かけて色んな種類を観察し採集もしてきた。
・・・私が観察した限りではミヤマキケマンは間違いなく円錐状の小突起が密布しているが、エゾキケマンでは凹んだ凹点ではなく、凸レンズ状に低く盛り上がって密布しているので、最初の印刷の際に凸点とすべき活字を凹点と誤植したのがそのまま間違えられてきたものであろうと想像している。
・・・この解説は「大井次三郎著北川政夫改定 新日本植物誌 (1982)版」にも「日本の野生植物Ⅱ (1982)(ケシ科は大井が担当)」にも受け継がれ、エゾキケマンとミヤマキケマンについては基本的には当初の説明は変っていない。しかし残念なことにこれらの説明は根本的に間違っていたのである。そのことについては誰も気づかず、一度も訂正されることなく今日まで過ぎてきた。
・・・昭和15年(1940)の「菅原繁蔵:樺太植物図誌第三巻 978-979, 1940」にも「…種子は純黒色楕円形にして, 多数の小疣状突起を有す」と説明しており、凹点とは述べていない。・・・》
大変貴重な指摘で,これを読んで隠岐のものをエゾキケマンであるとほぼ確信した。しかしその後,「誤植」と考えるのはやや不自然という気もして来た。検索表だけでなく,本文の記載も凹点となっているし,図鑑自体数度の改訂を経ている。ちなみに,地元の「北海道植物誌(2004 合田勇太郎)」まで「細凹点を密布する」としている。また分らなくなって来た。
福原先生からの私信(2010)では以下のような表現であった。
《・・・ミヤマキケマンやフウロケマンでは、種子はイボ状の突起に覆われていますが、エゾキケマンや隠岐島後で採集した植物では突起が無く、表面の細胞の境界が浅く凹んでいる(これが凸点に見える)だけでした。・・・》
「見える」という点がポイントであろう。これは屁理屈だが,高い部分を基準面(種子の表面)と考えれば低い所は凹点,低い部分を基準にすれば高い所は凸点,と言えなくもない。肝心な点は,出っ張りの「先端が円錐状に尖るか,あくまで円鈍か」である。いずれにしても,凹点の「点」は明らかにまずい。
ウェブ上で見ることのできる,巨大な“Flora of China(中国植物誌)”に注目すべき記述があった。日本にも凹点の出る変異型があるのだろうか。
エゾキケマン:
種子は,卵形~洋梨形,表面に「低い隆起,または(北限産地で)線状の小さなくぼみがある」,柱頭の突起は8個。
ミヤマキケマン:
種子は,円形で「刺状の突起がある(稀に平滑)」,柱頭は三日月形で突起は(4-)6個。
以上,「凹点」が間違いとまでは言えないとしても,誤解を招きやすい不適切な表現であるとは言える。ただそうだとすると,「凸点」同士の高さや尖り方の違い,つまり「程度問題」ということになるので,数多く観察して慎重に判断する必要がある。なお,「種子の形状や,柱頭の突起」については未検討,今後の課題である。しかし後述するように,隠岐のもの(隠岐型)の場合は,花弁の尖り方もミヤマキケマンとは違うので,大きな安心感がある。
まだ隠岐型の観察数が十分ではないが,インターネットの写真で見る各地のミヤマキケマンとは,種皮の突起に有意の差があると思う。隠岐型とそっくりの種子写真があったのは,韓国のサイトに限られる。鮮明な顕微鏡写真を複数のサイトで確認できるが,低い凸レンズ状のふくらみが並ぶのみで,「凹点」という感じは微塵もない。もちろん表示はC. speciosa (エゾキケマン)となっておりミヤマキケマンではない。
なお,“Flora of China” には,キケマン属の種456がズラリと並んでいた(日本には約15種)。「特に中国に多い」と言われてはいるが,これはもう恐怖だ。「適応放散」とはこのことか。日本で例外的に大きいのはスゲ属Carex で250種程度。
また,ミヤマキケマン(P. pallida)は「中国にはなさそうだ」という注釈があり,分布は「中国?,日本,韓国?」となっていた。日本で独自に進化したのだろうか。
“Flora of China” の「または,(北限産地で)線状の小さなくぼみ… or (in northernmost localities) with small linear depressions」を読んで妙な想像をした。エゾキケマンはロシアのマキシモヴィッチ(Maximowicz)によって1859年に記載され,タイプ産地はアムール川近くだそうである。ひょっとしたら,原記載に「凹点」と書いてあるのではないか?原記載の呪縛は長く続くものだ。基準標本(タイプ)が例外的な変異型だったりすると悲劇である。
3. エゾキケマンの分布
エゾキケマンの分布については,「日本植物誌」以来,『北海道,本州北部(早池峰山)-東シベリア,満州,中国(北部),樺太。』で,保育社図鑑(北村四郎,1961)も同一内容である。つまり,本州では岩手県の早池峰山(標高1,917m)にしかないものが,隠岐には普通にあるということを意味する。そして北海道にはエゾキケマンが普通で,ミヤマキケマンはないらしい。ミヤマキケマンが主体の本州とは逆,やはり別の世界であるようだ。
本州での分布は,最近のレッドデータブック(都道府県版)で次のようになっている。
青森県: 最重要希少野生生物(絶滅危惧Ⅰ類)
岩手県: 情報不足
やはり細井さんの記述が興味深い。
《下北半島の東北端に、寒立馬(カンダチメ)で有名な尻屋岬がある。その尻屋部落から3km南の尻労(シツカリ)部落までは太平洋岸沿いに断崖地が続いて通行出来ない。ここの尻屋側にエゾキケマンが分布しており花の時期には黄色く目立つ。このエゾキケマンを最初に見つけられたのは根市益三である。その後で部落側のスギ造林地内にも分布していたので、機会があれば近辺をもっと詳しく調べてみたいものである。今のところ青森県では他に産地はいないようである。》
岩手県については,《私は早池峰山に3度ほど登っているがエゾキケマンを見たことがなかった。・・・私の標本から遠野市にも分布していたことが分かったので、岩手県では意外に広い分布域が見出せる可能性があると思っている。・・・》と述べておられるが,レッドデータブックによると「過去の記録のみで現状が確認できない」ということのようだ。つまり,その程度でしかない。本州北端の地に「ある」とは言うものの,だいぶ隠岐とは事情が異なる。
隠岐で本種とそっくりの極端な隔離分布をしているものに,シダのオオエゾデンダ Polypodium vulgare があり,「氷河期の遺存種(レリック)」と考えられている。つまり,寒冷期に広く連続的に分布していたものが,温暖化にともない途中の地域では消滅した。ただ本種の場合,対岸の島根・鳥取両県によく似たミヤマキケマンがいくらでもあって,途中が抜けているわけではない。単純にオオエゾデンダと同じとは考えにくい。「隠岐と本州中部以北」という隔離分布は何例かあるが,青森県まで跳ぶのは他にない。そして北海道はあまりにも遠い。他の植物の例から考えると,むしろ朝鮮半島との縁の方が深そうである。
4. トサカキケマンなるもの
今回の騒ぎは,地元の仲間からのメールで始った(2010.6.6)。
《5月23日に自然観察指導員の研修会で鷲ヶ峰を歩きました。・・・駐車場の近くの沢の横で一風変わったキケマンを見ました。・・・これがトサカキケマンなのでしょうか?》
「えっ!トサカキケマン?」となって,文献を捜しまわったがそんなものは出て来ない。出所はインターネットに違いないと気付いて,福原先生のホームページを発見。隠岐で撮った大きな写真に次のようなコメントがついていた。
『北海道と早池峰に分布するエゾキケマンと良く似ていて、外花弁の舷部(先端の広がった部分)の形状が違う以外に明瞭な区別点がない。日本では隠岐・島後でしか見つかっていないが、韓国には広く分布する。』
『外花弁の舷部(外側の2枚の花弁の先端の広がった部分)が縦に長く、先端が緩やかに細まる。エゾキケマンや他の日本産キケマン類では円形に近く、先端は急にとがる。』
「これは大変」と福原先生の業績を検索してみたら,関係する論文が多く出て来てこの仲間のスペシャリストという印象を受けた。ただし,論文の内容は高度で,素人が分類の参考にするようなものではない。
トサカキケマンの学名すら分らないので一歩も前へ進めない。福原先生に教えを乞い,以下のメールを頂戴した。なお,ミチノクエンゴサクにも大いに驚く。やはり皆がヤマエンゴサクだと思っていたものだ。
************************
「トサカキケマン」に関心を持って頂き、ありがとうございます。
トサカキケマン(Corydalis pterophora Ohwi)は、1930年代に、『日本植物誌』などを著した植物学者の大井次三郎が、朝鮮で発見した種ですが、大井自身は、その後、北海道と岩手県早池峰山にあるエゾキケマンに含まれるものだと考え直し、植物図鑑等もその見解を踏襲しています。
十数年前に隠岐島後に採集に行く前は、特に疑問を持っていなかったのですが、島後の何ヶ所かで採集した植物は、トサカキケマンと一致するものでした。
隠岐では、ミヤマキケマンの分布が報告されていましたが、採集した植物の特徴はエゾキケマンに似ていました。特にハッキリしているのが種子で、ミヤマキケマンやフウロケマンでは、種子はイボ状の突起に覆われていますが、エゾキケマンや隠岐島後で採集した植物では突起が無く、表面の細胞の境界が浅く凹んでいる(これが凸点に見える)だけでした。また、種子を横から見たときの輪郭はミヤマキケマン・フウロケマンがほぼ円形なのに対して、エゾキケマンや隠岐の植物は卵形をしています。
エゾキケマンと違うのは、花弁の特徴で、丹後さまが挙げておられるとおりです。
その後、さまざまな資料を調べ、採集もしましたが、日本ではトサカキケマンは、今のところ、隠岐島後でしか見つかっていません。島前は、わずかな区域しか調査をしていませんが、見つけることができず、報告もされていないと思います。また、私が見回った限りでは、ミヤマキケマンはありませんでした。
隠岐のトサカキケマンと同じものは、韓国ではわりと普通に見られます。
残る問題は、エゾキケマンとトサカキケマンが同じ種の中の違いに過ぎないのか、別の種なのかと言うことですが、エゾキケマンは北東アジアに広く分布する種で全体像を把握していません。
ただ、日本のものを見る限り、分布が明確に分離し、形態も違いますのでエゾキケマンと区別しておく方が良いと考えています。
ただ、もしエゾキケマンであるとしても、先に述べたとおり、従来知られている分布地からかけ離れていて、特筆すべきことには間違いありません。
隠岐の中でのトサカキケマンの分布等、もし新しいことが分かりましたら御教示頂けると幸いです。
隠岐島後では、大満寺山山頂近くに、ミチノクエンゴサクが生育しており、福井県以東を除いて唯一の産地です。キケマン属の分布を考える上では興味深い地域だと思います。
************************
トサカキケマンの最も重要な特徴は「花弁(上側の外花弁)上部の形(尖り方)」にあるということが分った。
A.エゾキケマン: 円形~切形~しばしば凹形で,普通は中央部が短く突出する。
B.トサカキケマン: 長めの三角形状で徐々に尖り,くびれはない(あってもわずか)。
「くびれ」というのは「先端がつまんだように急に尖る」ことを意味する。多少の変化は見られるが,経験の少ない筆者でも十分認識できるほどの差だ。もちろん典型的な個体については,誰でも分るほどはっきり違う。
インターネットの写真を多数チェックしたが,北海道のエゾキケマンと本州のミヤマキケマンはいずれもはっきりA型であった。そして,韓国のサイトのほとんどが隠岐と同じB型である。
なお,“Flora of China”では「鋭尖~鈍頭~やや凹入」となっていて,A・B両型を区別していない。つまり,トサカキケマンをエゾキケマンに吸収。わざわざ,「上側の花弁のサイズや形は変異が多く・・・」と付記してある。
実は日本でも中国・韓国でも,トサカキケマン C. pterophora はエゾキケマン C. speciosa の異名という扱いで,現在トサカキケマンなる種は忘れ去られている。しかし,隠岐の住人としてはトサカキケマンを復活させ,より精密な把握をしておきたい。上側の花弁に目で見て分る違いがあるし,何よりも日本での分布が隠岐に局限されている。そして,この分野に詳しい福原先生の同意がある。

【追記】 2018.2.18
『改訂新版 日本の野生植物』(2016,平凡社)の記載。
担当執筆は福原達人博士。
「エゾキケマン …… 北海道・本州北部・隠岐,シベリア東部・中国・サハリン・朝鮮半島に分布する。隠岐および朝鮮半島南部の個体は外側の花弁の舷部が楕円形で他地域の個体(ほぼ円形)と異なる。」
ネット上に公開されている「青森県植物誌」の解説(細井幸兵衛氏による)を引用させていただきました。感謝申し上げます。
今までミヤマキケマン Corydalis pallida (Thunb.) Pers. var. tenuis Yatabe とされて来た種(ケシ科キケマン属)が,実はエゾキケマン Corydalis speciosa Maxim. であることが明らかになった。同定は福岡教育大の福原達人博士によるもので,疑問の余地は全くない。更に,隠岐産のものはトサカキケマン C. pterophora Ohwi とすべきであろう,という同氏の見解も併せて紹介したい。
エゾキケマンは北海道以外では青森・岩手両県の一部にしか自生しないし,トサカキケマンと見なせば日本では隠岐だけに分布することになる。まだ一般には知られていない衝撃的な事実である。
1. 何故ミヤマキケマンと間違えたのか
地元の研究家による過去の記録はすべてそうなっているし,専門の分類学者までミヤマキケマンとして報告している。「隠岐のは少し違う」と言われる種は時々あるのだが,本種に関してはそんな噂を聞いたことがない。今まで疑う人はいなかったということか?不可解な話だと思う。むろん筆者の場合も,エゾキケマンの可能性など一瞬たりとも考えなかった。ミヤマキケマンの母種であるフウロケマン C. pallida var. pallida との区別に,多少迷った程度である。
北海道にエゾキケマン,本州の近畿以東にミヤマキケマン,西日本(中国地方・四国・九州)にフウロケマン,の似たもの3種が分布しているとされる。そしてこの3者の区別は,大井「植物誌」の検索表では次のようになっている(以下ミヤマキケマンとフウロケマンの区別は無視する)。その後に続く主要図鑑や,最新の“Flora of Japan(日本植物誌)”にも同じことが書いてある。
・種子の表面に細凹点がある --------------------- エゾキケマン
・種子の表面に円錐状の突起がある -------------- ミヤマキケマン
再度自分でも調べてみたが(島後:大満寺山,島前:高崎山),凹点は全く感じられなかった。円錐状に尖る突起もなく,緩やかな凸レンズ状のふくらみがあるだけである。確かにこれでは,検索表に従って「エゾキケマンではない」という結論を出さざるを得ない。突起の高低に多少の変化はあるが,少なくとも「凹点」ではないので。この「凹点」という表現が混乱の元凶という気がする。他に,北海道産エゾキケマンの実物を知らないことも遠因となっているのであろう。分布が「北海道」や「沖縄」だけになっていると,筆者なぞは直ぐに検討の対象から外してしまう。
2. 「凹点」は図鑑のミスか
これについては結構悩んでいたので,細井幸兵衛氏(青森県)の詳細を窮めた解説(2009)に出会って感激した。「印刷工の誤植では?」という説である。
《・・・私は長年にわたって本当のエゾキケマンを探し続けてきた。その結果、過去の誤りをやっと解決出来た
・・・大井次三郎博士による種子表面の解説を見ても、本物のエゾキケマンに巡り合って認識するまではよく理解できなかった。そんな訳で私には思ったよりもエゾキケマンの理解には長い年月を費やした。
・・・青森県産の多くの種類を正確に理解するために北海道によく出かけて色んな種類を観察し採集もしてきた。
・・・私が観察した限りではミヤマキケマンは間違いなく円錐状の小突起が密布しているが、エゾキケマンでは凹んだ凹点ではなく、凸レンズ状に低く盛り上がって密布しているので、最初の印刷の際に凸点とすべき活字を凹点と誤植したのがそのまま間違えられてきたものであろうと想像している。
・・・この解説は「大井次三郎著北川政夫改定 新日本植物誌 (1982)版」にも「日本の野生植物Ⅱ (1982)(ケシ科は大井が担当)」にも受け継がれ、エゾキケマンとミヤマキケマンについては基本的には当初の説明は変っていない。しかし残念なことにこれらの説明は根本的に間違っていたのである。そのことについては誰も気づかず、一度も訂正されることなく今日まで過ぎてきた。
・・・昭和15年(1940)の「菅原繁蔵:樺太植物図誌第三巻 978-979, 1940」にも「…種子は純黒色楕円形にして, 多数の小疣状突起を有す」と説明しており、凹点とは述べていない。・・・》
大変貴重な指摘で,これを読んで隠岐のものをエゾキケマンであるとほぼ確信した。しかしその後,「誤植」と考えるのはやや不自然という気もして来た。検索表だけでなく,本文の記載も凹点となっているし,図鑑自体数度の改訂を経ている。ちなみに,地元の「北海道植物誌(2004 合田勇太郎)」まで「細凹点を密布する」としている。また分らなくなって来た。
福原先生からの私信(2010)では以下のような表現であった。
《・・・ミヤマキケマンやフウロケマンでは、種子はイボ状の突起に覆われていますが、エゾキケマンや隠岐島後で採集した植物では突起が無く、表面の細胞の境界が浅く凹んでいる(これが凸点に見える)だけでした。・・・》
「見える」という点がポイントであろう。これは屁理屈だが,高い部分を基準面(種子の表面)と考えれば低い所は凹点,低い部分を基準にすれば高い所は凸点,と言えなくもない。肝心な点は,出っ張りの「先端が円錐状に尖るか,あくまで円鈍か」である。いずれにしても,凹点の「点」は明らかにまずい。
ウェブ上で見ることのできる,巨大な“Flora of China(中国植物誌)”に注目すべき記述があった。日本にも凹点の出る変異型があるのだろうか。
エゾキケマン:
種子は,卵形~洋梨形,表面に「低い隆起,または(北限産地で)線状の小さなくぼみがある」,柱頭の突起は8個。
ミヤマキケマン:
種子は,円形で「刺状の突起がある(稀に平滑)」,柱頭は三日月形で突起は(4-)6個。
以上,「凹点」が間違いとまでは言えないとしても,誤解を招きやすい不適切な表現であるとは言える。ただそうだとすると,「凸点」同士の高さや尖り方の違い,つまり「程度問題」ということになるので,数多く観察して慎重に判断する必要がある。なお,「種子の形状や,柱頭の突起」については未検討,今後の課題である。しかし後述するように,隠岐のもの(隠岐型)の場合は,花弁の尖り方もミヤマキケマンとは違うので,大きな安心感がある。
まだ隠岐型の観察数が十分ではないが,インターネットの写真で見る各地のミヤマキケマンとは,種皮の突起に有意の差があると思う。隠岐型とそっくりの種子写真があったのは,韓国のサイトに限られる。鮮明な顕微鏡写真を複数のサイトで確認できるが,低い凸レンズ状のふくらみが並ぶのみで,「凹点」という感じは微塵もない。もちろん表示はC. speciosa (エゾキケマン)となっておりミヤマキケマンではない。
なお,“Flora of China” には,キケマン属の種456がズラリと並んでいた(日本には約15種)。「特に中国に多い」と言われてはいるが,これはもう恐怖だ。「適応放散」とはこのことか。日本で例外的に大きいのはスゲ属Carex で250種程度。
また,ミヤマキケマン(P. pallida)は「中国にはなさそうだ」という注釈があり,分布は「中国?,日本,韓国?」となっていた。日本で独自に進化したのだろうか。
“Flora of China” の「または,(北限産地で)線状の小さなくぼみ… or (in northernmost localities) with small linear depressions」を読んで妙な想像をした。エゾキケマンはロシアのマキシモヴィッチ(Maximowicz)によって1859年に記載され,タイプ産地はアムール川近くだそうである。ひょっとしたら,原記載に「凹点」と書いてあるのではないか?原記載の呪縛は長く続くものだ。基準標本(タイプ)が例外的な変異型だったりすると悲劇である。
3. エゾキケマンの分布
エゾキケマンの分布については,「日本植物誌」以来,『北海道,本州北部(早池峰山)-東シベリア,満州,中国(北部),樺太。』で,保育社図鑑(北村四郎,1961)も同一内容である。つまり,本州では岩手県の早池峰山(標高1,917m)にしかないものが,隠岐には普通にあるということを意味する。そして北海道にはエゾキケマンが普通で,ミヤマキケマンはないらしい。ミヤマキケマンが主体の本州とは逆,やはり別の世界であるようだ。
本州での分布は,最近のレッドデータブック(都道府県版)で次のようになっている。
青森県: 最重要希少野生生物(絶滅危惧Ⅰ類)
岩手県: 情報不足
やはり細井さんの記述が興味深い。
《下北半島の東北端に、寒立馬(カンダチメ)で有名な尻屋岬がある。その尻屋部落から3km南の尻労(シツカリ)部落までは太平洋岸沿いに断崖地が続いて通行出来ない。ここの尻屋側にエゾキケマンが分布しており花の時期には黄色く目立つ。このエゾキケマンを最初に見つけられたのは根市益三である。その後で部落側のスギ造林地内にも分布していたので、機会があれば近辺をもっと詳しく調べてみたいものである。今のところ青森県では他に産地はいないようである。》
岩手県については,《私は早池峰山に3度ほど登っているがエゾキケマンを見たことがなかった。・・・私の標本から遠野市にも分布していたことが分かったので、岩手県では意外に広い分布域が見出せる可能性があると思っている。・・・》と述べておられるが,レッドデータブックによると「過去の記録のみで現状が確認できない」ということのようだ。つまり,その程度でしかない。本州北端の地に「ある」とは言うものの,だいぶ隠岐とは事情が異なる。
隠岐で本種とそっくりの極端な隔離分布をしているものに,シダのオオエゾデンダ Polypodium vulgare があり,「氷河期の遺存種(レリック)」と考えられている。つまり,寒冷期に広く連続的に分布していたものが,温暖化にともない途中の地域では消滅した。ただ本種の場合,対岸の島根・鳥取両県によく似たミヤマキケマンがいくらでもあって,途中が抜けているわけではない。単純にオオエゾデンダと同じとは考えにくい。「隠岐と本州中部以北」という隔離分布は何例かあるが,青森県まで跳ぶのは他にない。そして北海道はあまりにも遠い。他の植物の例から考えると,むしろ朝鮮半島との縁の方が深そうである。
4. トサカキケマンなるもの
今回の騒ぎは,地元の仲間からのメールで始った(2010.6.6)。
《5月23日に自然観察指導員の研修会で鷲ヶ峰を歩きました。・・・駐車場の近くの沢の横で一風変わったキケマンを見ました。・・・これがトサカキケマンなのでしょうか?》
「えっ!トサカキケマン?」となって,文献を捜しまわったがそんなものは出て来ない。出所はインターネットに違いないと気付いて,福原先生のホームページを発見。隠岐で撮った大きな写真に次のようなコメントがついていた。
『北海道と早池峰に分布するエゾキケマンと良く似ていて、外花弁の舷部(先端の広がった部分)の形状が違う以外に明瞭な区別点がない。日本では隠岐・島後でしか見つかっていないが、韓国には広く分布する。』
『外花弁の舷部(外側の2枚の花弁の先端の広がった部分)が縦に長く、先端が緩やかに細まる。エゾキケマンや他の日本産キケマン類では円形に近く、先端は急にとがる。』
「これは大変」と福原先生の業績を検索してみたら,関係する論文が多く出て来てこの仲間のスペシャリストという印象を受けた。ただし,論文の内容は高度で,素人が分類の参考にするようなものではない。
トサカキケマンの学名すら分らないので一歩も前へ進めない。福原先生に教えを乞い,以下のメールを頂戴した。なお,ミチノクエンゴサクにも大いに驚く。やはり皆がヤマエンゴサクだと思っていたものだ。
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「トサカキケマン」に関心を持って頂き、ありがとうございます。
トサカキケマン(Corydalis pterophora Ohwi)は、1930年代に、『日本植物誌』などを著した植物学者の大井次三郎が、朝鮮で発見した種ですが、大井自身は、その後、北海道と岩手県早池峰山にあるエゾキケマンに含まれるものだと考え直し、植物図鑑等もその見解を踏襲しています。
十数年前に隠岐島後に採集に行く前は、特に疑問を持っていなかったのですが、島後の何ヶ所かで採集した植物は、トサカキケマンと一致するものでした。
隠岐では、ミヤマキケマンの分布が報告されていましたが、採集した植物の特徴はエゾキケマンに似ていました。特にハッキリしているのが種子で、ミヤマキケマンやフウロケマンでは、種子はイボ状の突起に覆われていますが、エゾキケマンや隠岐島後で採集した植物では突起が無く、表面の細胞の境界が浅く凹んでいる(これが凸点に見える)だけでした。また、種子を横から見たときの輪郭はミヤマキケマン・フウロケマンがほぼ円形なのに対して、エゾキケマンや隠岐の植物は卵形をしています。
エゾキケマンと違うのは、花弁の特徴で、丹後さまが挙げておられるとおりです。
その後、さまざまな資料を調べ、採集もしましたが、日本ではトサカキケマンは、今のところ、隠岐島後でしか見つかっていません。島前は、わずかな区域しか調査をしていませんが、見つけることができず、報告もされていないと思います。また、私が見回った限りでは、ミヤマキケマンはありませんでした。
隠岐のトサカキケマンと同じものは、韓国ではわりと普通に見られます。
残る問題は、エゾキケマンとトサカキケマンが同じ種の中の違いに過ぎないのか、別の種なのかと言うことですが、エゾキケマンは北東アジアに広く分布する種で全体像を把握していません。
ただ、日本のものを見る限り、分布が明確に分離し、形態も違いますのでエゾキケマンと区別しておく方が良いと考えています。
ただ、もしエゾキケマンであるとしても、先に述べたとおり、従来知られている分布地からかけ離れていて、特筆すべきことには間違いありません。
隠岐の中でのトサカキケマンの分布等、もし新しいことが分かりましたら御教示頂けると幸いです。
隠岐島後では、大満寺山山頂近くに、ミチノクエンゴサクが生育しており、福井県以東を除いて唯一の産地です。キケマン属の分布を考える上では興味深い地域だと思います。
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トサカキケマンの最も重要な特徴は「花弁(上側の外花弁)上部の形(尖り方)」にあるということが分った。
A.エゾキケマン: 円形~切形~しばしば凹形で,普通は中央部が短く突出する。
B.トサカキケマン: 長めの三角形状で徐々に尖り,くびれはない(あってもわずか)。
「くびれ」というのは「先端がつまんだように急に尖る」ことを意味する。多少の変化は見られるが,経験の少ない筆者でも十分認識できるほどの差だ。もちろん典型的な個体については,誰でも分るほどはっきり違う。
インターネットの写真を多数チェックしたが,北海道のエゾキケマンと本州のミヤマキケマンはいずれもはっきりA型であった。そして,韓国のサイトのほとんどが隠岐と同じB型である。
なお,“Flora of China”では「鋭尖~鈍頭~やや凹入」となっていて,A・B両型を区別していない。つまり,トサカキケマンをエゾキケマンに吸収。わざわざ,「上側の花弁のサイズや形は変異が多く・・・」と付記してある。
実は日本でも中国・韓国でも,トサカキケマン C. pterophora はエゾキケマン C. speciosa の異名という扱いで,現在トサカキケマンなる種は忘れ去られている。しかし,隠岐の住人としてはトサカキケマンを復活させ,より精密な把握をしておきたい。上側の花弁に目で見て分る違いがあるし,何よりも日本での分布が隠岐に局限されている。そして,この分野に詳しい福原先生の同意がある。

【追記】 2018.2.18
『改訂新版 日本の野生植物』(2016,平凡社)の記載。
担当執筆は福原達人博士。
「エゾキケマン …… 北海道・本州北部・隠岐,シベリア東部・中国・サハリン・朝鮮半島に分布する。隠岐および朝鮮半島南部の個体は外側の花弁の舷部が楕円形で他地域の個体(ほぼ円形)と異なる。」